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幕末と傑山寺~ 佐藤孝郷の活躍 ~

戊辰戦争で敗れた仙台藩の白石城主片倉家の家臣たちは北海道移住を決心しました。

明治4年9月、北海道を目指し約600人が咸臨丸と庚午丸に乗り、途中の嵐に見舞われ咸臨丸が座礁する事故に遭いながらも北海道の地に到着しました。 (咸臨丸は福沢諭吉らの使節団を乗せて日本初の太平洋横断を成し遂げた船ですが、最後は片倉一行が看取ることになりました。)

移住の成功には佐藤孝郷という人物の存在があります。 佐藤家は代々着座家老で、孝郷は16歳の若さで家老職を継ぎました。 江戸幕府が終わりを迎える前年でした。 家老就任後間もなく、奥羽25藩が白石城に集まり、奥羽列藩同盟の重要な会議が開かれ、18歳の孝郷は、白石に於いて、会議のスムーズな進行に奔走しました。

戦争に敗れ、仙台藩は禄高を減らされ、それに伴い片倉小十郎は玄米55俵と無いにまで減らされ、家臣7,459人は失業して路頭に迷うことになりました。

明治2年4月、片倉家は藩士2名を上京させ、家臣一同の生活の道を探らせ、この蝦夷地移住計画を知らされました。 先祖代々の墓と、武士の身分を捨て移住することは辛かったが、選択の余地はありませんでした。

22歳の家老佐藤孝郷を中心として、傑山寺に於いて二昼夜議論した結果、1,000人余りの移住を決定しました。 按察府からの移住は自費との指示があり、開拓した土地は自分のものになるものの、自費負担の移住で資金が無く、山崎屋から3,000両の借金をし、開拓使は2,500両を支出。 不足の500両は政府からの貸付金と白石城の解体材売却金で開拓経費に充てられました。

明治3年に開拓使が直轄事業として移民受け入れとなり、開拓使貫属(士族の身分を持ち、北辺を守りながら開拓する人)といい、武士の身分を失った者には何より魅力でした。

第1団は片倉小十郎邦憲公と19戸が移住を開始しました。 明治4年3月、孝郷を貫属取締として600名と共に移住しました。

先住先は幌別(登別)、札幌市白石区など、今でも北海道の方々のお参りをたくさんいただいています。 中には白石市を「御本家」と呼んでいる方もおられます。

白石は戊辰戦争時に奥羽越列藩同盟の中心として位置付けられましたが、傑山寺も侍の詰所として重要な要所とされました。 官軍の強硬派である世良修蔵が阿武隈川河原で斬首された後、その首級が傑山寺に運び込まれたときも、十四世住職の東関和尚は片倉家菩提所に奥羽討伐の強硬派世良を葬ることに難色を示し、傑山寺末寺の月心院に埋葬させたといわれています。

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