常英山傑山寺本尊について
前立ち本尊の「釈迦如来坐像」
傑山寺の本尊は「拈華釈迦如来立像」です。寺伝では初代片倉小十郎景綱公が伊達政宗の乳母であった異父姉少納言喜多の菩提を弔うために圓同寺として創建されたのが現在の傑山寺で、開創当時より御本尊として祀られて参りました。
拈華釈迦如来とは、お釈迦様も高齢になられ、次の代に仏教の法をお譲りになりたいとお考えになり、霊鷲山という修行場に弟子たちを一同に集められ、その足元にあった一本の花を拈じかざしたお姿と言われています。
傑山寺では、拈華釈迦如来立像と供に、二代目として法を譲られた摩訶迦葉尊者、三代目として法を嗣がれた阿難尊者の三仏を祀って参りました。
幾多の災禍により摩訶迦葉尊者像と阿難尊者像は焼失を免れず、平成二十年の傑山寺創建四百年の大遠諱法要に併せ摩訶迦葉尊者像と阿難尊者像は仏師により新たに制作安置されました。
ご本尊の拈華釈迦如来立像も歴代の住職が命がけで搬出し難を逃れたものの、全身焼け焦げの跡が残り、手足の欠損やひびも多く、修復に努めましたが、現在は厨子に安置し当寺の秘仏として祀られております。
現在本堂に安置されている釈迦如来坐像は、「前立ちご本尊」として傑山寺先祖代々の御霊を慰め、檀信徒各位の心の拠り所として祀られております。
脇本尊の「摩訶迦葉尊者」
(拈華釈迦如来立像に向かって右側)
迦葉尊者(マハーカーシャパ・大迦葉・摩訶迦葉)は頭陀業第一(ずだぎょう)といわれています。 頭陀業とは衣・食・住に対する執着を払いのけるために実践しなければならない行で、例えばボロで作った衣を着なければならない『著幣衲衣(じゃくへいのう)』という行では、お釈迦様からもらった糞掃衣(ふんぞうえ)をまとった生活をしました。 あるいは、常に托鉢して歩き『常行乞食(じょうぎょうこつじき)』、布施されたものを一日一食だけ摂って生活する『受一食法(じゅいつじきほう)』という行も、その通りに実践しました。 迦葉尊者は出家してから生涯を終えるまで、このような頭陀業を実践しました。
脇本尊の「阿難尊者」
(拈華釈迦如来立像に向かって左側)
阿難尊者(アーナンダ・阿難・阿難陀)はお釈迦様の従弟で多聞第一と称されています。 お釈迦様の教えはご自身が文字にして書き留められた文書の形で残っていたわけではありません。 お釈迦様の説法を聞いた弟子達は、それぞれの記憶に留めていました。 お釈迦様入滅後、その教えがバラバラになってしまい、勝手に解釈されることを恐れた摩訶迦葉尊者は、お釈迦様の教をまとめる会議(第一結集)を開きます。 会議には悟りを開いた弟子が参加します。 しかしその頃、阿難尊者はまだ悟りを開いておらず、阿難は出家して25年間、お釈迦様の侍者(世話役)として常にお釈迦様のそばに仕え、行動を共にし、直にお釈迦様の教を聞いておりました。 弟子達は、多聞第一の阿難尊者抜きでは教えをまとめることが出来ないと思い参加を求めましたが、阿難尊者は悟りを開いていない自分が参加することをためらい、苦しみ続けていました。 夜も明け、いよいよ会議の開かれる日、ついに悟りを開くことが出来、会議への参加を認められ、経典をまとめることが出来ました。 今の経典の原点は阿難尊者あってのことです。また、女性の弟子尼僧教団をお釈迦様に認めさせたのも阿難尊者の功績です。
※迦葉尊者・阿難尊者とも合掌のお姿ではありませんが、内陣の白い壁に映る影は、お二人とも合掌しているお姿に見えます。
本尊の周りにある四天王
四天王は欲界の六欲天の中、天に住む仏教における4人の守護神です。 六欲天の第一天に住む帝釈天に仕え、その中腹で伴い仏法を守護しております。 東方には持国天、南方には増長天、西方には広目天、北方には多聞天(毘沙門天)が四方をお守りしています。
※この四天王は傑山寺に縁の深い篤信者による寄進とされています。