片倉小十郎景綱公の銅像
文化勲章受章者・中村晋也先生によって製作されました。
自身の墓標でもある一本杉の切り株に腰を下ろし、甲冑姿ではなく、鎖帷子に陣羽織・烏帽子をかぶり、軍師として戦いにも参戦。また行政にも精通し、また文化人として笛の名手でもあった景綱公は、戦場でも愛用の篠笛「潮風」を手放さなかったと言われており、その笛を手に、静かにたたずむ文武両道を生きた景綱公の姿が表現されております。
今でも見守り続けていただくよう、白石の街に顔を向けています。
片倉家墓所
傑山寺本堂に向かって左手の丘陵地の奥まった場所に、片倉家十一代目以降の当主と代々の奥方の墓所があります。 二代目以降の奥方様は阿弥陀如来像の下に埋葬されています。
景綱公が没して65年後の延宝8年(1680)、片倉家三代景長(かげなが)は、景綱の命日にあたる10月14日、白石城が見渡せる白石郊外愛宕山に初代景綱公の遺骨を分骨し、二代重長の墓も改葬され、現在も初代景綱から十代宗景までの廟所となり、十体の阿弥陀如来像が横一列に並んでいます。
片倉小十郎景綱公の墓標『一本杉』
元和元年(1615)10月14日、片倉小十郎景綱公は59歳でその生涯を閉じました。 最後まで主君に忠誠を誓った景綱の最期は静かな眠りでありました。 主君政宗は伊達家の柱石として武勲をあげた景綱の葬礼に際し、自からの愛馬を下賜、棺を引かせて、その功臣に別れを告げました。 景綱の遺骸は傑山寺に埋葬され、片倉小十郎亡き後、白石を守る礎となるべく、遺言により一本の杉を植えさせ墓標にしたと言われています。 戒名は「傑山常英大禅定門」、後に「傑山寺殿俊翁常英大居士」と諡(おくりな)されました。
今、初代片倉小十郎景綱の墓標である一本杉の梢を見上げて立てば、それは天に向って亭々と真直ぐに伸び、まさに景綱の生きざまそのものを感じざるを得ません。 景綱公が築きあげたこの白石には、いかなるときも自らの信念を貫き通した景綱公の志を感じることができます。傍らには奥方の五輪塔も建立されております。