仙台松前家と傑山寺
松前安広は若年のころ、青雲の志を抱き、四人の共の者と松前城を後にして、江戸に向かって旅立ちました。 陸奥国に上陸し、一路奥州街道を上り、白石にさしかかった時、白石城下は桜花らんまんで、蔵王の連山は、美しい残雪の姿を見せていました。
安広一行は、そのあまりの美しさに見とれ、また、江戸までほぼ八十里の白石城下に着いた心のゆとりもあったのでしょうか、白石川の清流で魚釣りを楽しんだのでありました。
元和元(1615)年の大坂夏の陣で獅子奮迅の活躍をおさめ、鬼小十郎の異名をとった片倉小十郎重長(二代)が領内視察のために白石川の橋を渡った時、丁度そこで釣りをしていた安広に遭遇しました。 そして家臣に釣りをしている者が何者であるか尋ねるよう命じました。 家来は、片倉小十郎の命で、その旨を告げると、安広は悠然と「片倉か、苦しゅうない」と答えました。 安広と小十郎は互いに名乗りあい、意気投合したのでした。
早速、白石城に案内され、最大のもてなしを受けた安広は、美しい白石がすっかり気に入り、蔵王高原の散策や、鹿狩り等に興じているうちに、あっという間に数ヶ月という歳月が流れてしましました。
付き添いの家臣達の進言によって、ようやく江戸に旅立つふんぎりをつけた安広でしたが、運命とは何と数奇なものでしょうか、明朝、いよいよ出立するという前夜、安広は、突然高熱におかされ、診察の結果、疱瘡(ほうそう)にかかったことが分かりました。 小十郎は、何としても安広の命を救おうと、すぐに名医を遣わし、姫君に手厚く看病するよう命じました。 そのかいあって、安広の病はすぐに快方へと向い、もとの頑健な体になりました。この時、安広はどれほどこの白石の地に運命的なつながりを感じたことでしょう。
その後安広は小十郎の推挙によって伊達家に仕官し、一千石を賜りました。 新居は、西北に蔵王の連山を仰ぎ、眼下に、白石川、児捨川が望める風光明媚な福岡長袋の丘陵に構え、花嫁は、病気療養の時の縁で、重長の姫君(喜佐)を娶りました。 この地は今も「御屋敷」と呼ばれています。
重長公には男子が生まれず、安広と喜佐の長男を養子に迎え、片倉家三代景長公となります。 二男国広は仙台松前家となり、代々仙台家臣となって続いております。
松前安広は後に伊達郡藤田(現角田市)の邑主となり、さらに栗原郡清滝村(現大崎市古川地区)を拝領しました。
仙台松前家の墓は松前家の墓として傑山寺に祭られています。