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初代「谷風梶之助」と傑山寺

初代谷風は、本名は鈴木善十郎といい、蔵王町宮の刈田嶺神社(別名白鳥大明神)の門前に生まれました。 鈴木家は城主片倉家の鉄砲組足軽の地位にありましたが、善十郎が幼少の折、父が早くに他界し、それを境に、一家は貧困のどん底に落ちてしまいました。 幼い子どもを育てる術もなく、善十郎は親元を離され、白石中町の小関家で養育されました。

そんな境遇の中でも、実直に、すくすく育った善十郎に、ある日突然転機がおとずれました。 白石城下で開かれた江戸相撲の場で、立派な体格の善十郎は、力士になるように勧められたのでした。 善十郎弱冠17歳の時のことでした。

早速、江戸に出て、猛稽古に励んだ善十郎は、しこ名を、郷土ゆかりの明神林として土俵に上がりました。 生まれながらの強じんな体と熱心な稽古によって、善十郎は並いる強敵を次々と負かし、当初から、その特異な才覚を現したといわれています。

その後、正徳3 (1713) 年に20歳で幕内に昇進し、しこ名を「谷風梶之助」と改め、片倉家のお抱え力士となりました。 しかし、谷風のあまりの強さに惚れ込んだ松平藩主が片倉家に、今でいう、トレードを申し込んできました。 当時は、人気力士を抱えることが、大名にとって、その心意気を誇示する何よりの方法であり、大名は、競うように強い力士を求めた時代でありました。

こうして、白石に育った谷風は、讃州谷風として、四国高松十二万石の松平家のお抱え力士となり、新たな人生を歩むことになるのでした。 全盛期であった享保年間には、9年間、無敗の記録を持ち、大関が最高位であった時代に「最強の大関」として角界に、その名を轟(とどろ)かせました。

元文元年(1736)、初代谷風梶之助は、数々の功績を讃えられながら、静かに、その生涯を閉じました。享年43歳でした。

華やかな相撲人生を、遠く高松で送ったにもかかわらず、その遺骨は、彼の遺言によって、生まれ故郷の領主、片倉小十郎景綱公が眠る傑山寺に葬られ、初代谷風の墓として今も多くの方々が参詣されています。

「男柔和、色白美男、力衆に越え、関取の鑑(かがみ)」と、もてはやされた谷風でしたが、郷土、白石を想う心、そして、領主を慕う心は、人一倍強かったに違いありません。

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